12月5日、友達の演劇を観に行った。

昨日友達の演劇を観に行ったので、それについての感想です。

 

 

 

 

【演劇のこと】

 

観に行ったのはこちら。

 

pepepepepe.amebaownd.com

 

大学の友人が「ペペぺの会」に所属していて、2ヶ月前くらいに彼女から今回の公演に誘われて、大学の友人と観に行った。場所は池袋のシアターグリーン

 

ペペぺの会と他2団体を合わせた3団体による演劇展。それぞれの演出の方が今回の劇について話していたトークYouTubeに上がっていたので、それを聴いた後で観劇した。

 

 

【魔法の竹馬ミナもやん 雲海の海】

note.com

 

 

いつもどうしても、魔が差してくる。

あなたは、夕方なのにスカスカな電車の中で話してくれた。

人生がつまらないことで自分を責めているようだけど。

あなたは私の隣で、まだ目を瞑って拝んでいた。

 

 

始めて観る劇団。当日配られたパンフレットに「笑っていいのか分からない演劇作品」と評してあり、所謂演劇感をむき出しにした前衛的な笑いが演出されているのかもしれない、と嫌な予感がした。

 

が、杞憂だった。前衛的な笑いよりも、真正面からシュールな笑いだった。お父さんとして居座っていたデカい熊のぬいぐるみを、ぶん回している時点でダメだった。さっきまでそれお父さんとして存在してたよね?

 

 

「家族とバイト以外で会う人って何なんだろう」と演出の方が仰っていたこともあり、「ウチ」での場面が多かった。親子、同棲、恋人との旅先など。全く知らない人との接触では無く、コロナを経てより密度が増した日常についての話。

 

そして日常を共に過ごす相手とは、一緒にいるための言葉は少ないように思う。中学生の時よりも大人になってからの方が友達の作り方に関して悩むことのように、当たり前のように同じ環境にいる人について「何話したらいいんだろう」と悩むことは無い。

 

なので雲海の園も「日常」パートにおいて交わされる会話は意味があまりないようなものばかりだった。言葉に意味があるのではなく、一緒にいることに意味があるのだ。

 

 

その一方で、街中で見知らぬ男に話しかけられ、道案内をする場面がある。この場面が雲海の園の中で唯一のソトで、非日常だ。先程の理論で言うと、日常の中で交わされる言葉には意味は必要無いが、非日常の中での言葉には意味が要る。説明的、と言ってもいいかもしれない。

 

僕たち観客はそれまでの日常パートでは日常を覗かせてもらう立場だったので、「この2人はどういう関係なんだろう」とか「タバコが増えたというのは、昔から吸っていて、最近嫌なことがあって増えたのかな」とか「そのミサンガは2人しか分からないことなんだろう」と、これまでの日常に関して考えさせることが多かった。そして考えさせる要素が少ない分、非日常の道案内パートが一番分かりやすく、話している言葉の意味が分かった。

 

「ご飯作ったら食べる?」が最後のセリフのこの劇。見終わった後でループものみたいだなと感じたのは、日常は繰り返されるものだからなんだろうな。もう一回観たいと思わせる劇だった。

 

【いいへんじ pause】

 

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こちらも始めて観る劇団。初めてネットで「おばけばかり」の詳細を見た時に、劇のあらすじを見て一番面白そうだな、と思った劇。

 

いったん
止められた音楽の
いったん
閉じられた小説の
いったん
止められた映像の
いったん
伏せられたスマートフォン

 

そのなかにわたしたちはいて
思い出されるのを待っている

 

ポーズ。一時停止。II。一緒に走っていた3人のうちの1人が、急に立てなくなってしまう。当たり前のことが出来なくなってしまった中で、普通でいることの難しさや、そもそもの当たり前への違和感、普通の道を歩くことへのアンチテーゼが込められている。コロナにより止まることを余儀なくされた様々なこと。その中の音楽、小説、日常、私。

 

そしてこの劇では一時停止したことをきっかけとして、3人の関係性についても触れられている。まだ立っている他の2人は「私たちが一緒にいるために、何か3人で新しいことを始めないと!」と一緒にいる意味や、この関係性を続けるために必要な何かを探し始める。

 

反対に、止まってしまった1人は「私は別にこのままでも良いよ。3人で一緒にいられるなら」と一緒にいることに意味や関係性の名前は必要ない、ということを言う。

 

3人で何かをしていないと、関係性が続かないと思っている2人。

3人で何かをしていなくても、関係性が続くと思っている1人。

 

一時停止してしまったことを理由に普通に関して考える点や、何気なく一緒にいた関係性について考えることなど、見ていて最も共感性が高いテーマであった。

 

また、2人の主語が「私たち」だったのに対して、1人の主語が「私」だったり、劇の最後のセリフが「主人公みたいじゃん」だったのも、この3人の捉え方の違いを感じさせた。3団体の中では一番メッセージ性が込められている劇だった。この団体の他の劇も見てみたい。

 

 

【ペペぺの会 楽園迫る】

 

pepepepepe.amebaownd.com

 

ペペぺの会。友達の劇団。ぺぺぺの劇を見るのはこれで4回目。見る度に毎回「分からん過ぎるな」となる。良く分からないけど、何らかののメッセージに圧倒的な熱量が込められていることは分かる。でも良くは分からない。そんな劇団。

 

わたしとあなたを照らすは闇! 一筋の闇!

──長い夜のうちに暮らす人人の呼吸音。そうして人人のあいだに決定的かつ不安定な壁がそびえ立つ。

〈わたし〉の言葉が不自由になったのはいつからだろう。〈わたし〉は誰に向けて話しているのだろう。〈わたし〉が発するのは単なる呼吸音。

この演劇は息詰る現代へ宛てられる便箋。詩によって紡がれた、人人の論理を超越する会話劇。

 

「ミナもやん」と「いいへんじ」の劇が意味を考えさせるようなものだった(特にいいへんじに関してはかなり分かりやすいメッセージが込められていた)ので、先の2団体との比較で「これは何を表しているのだろうか、何を考えればいいのだろうか?」と素直に感じた。

 


 ただ、そこで演出の宮澤さんがラジオで仰っていた「考えたことには嘘が混じるけど、感じたことには嘘が混じらない」という言葉を思い出した。確かに「考える」ことは、自分の中で納得をする答えを導き出すという感覚だ。事実がそうでなかったとしても、自分の都合が良いように解釈してしまう時もある。

 

なので、楽園迫るに関しては「考える」ことよりも「感じる」ことにシフトして観劇した。(シフトせざるを得なかった、の方が近いかもしれない。)


 感じることにシフトして観劇した「楽園迫る」は、これまでのペペぺに比べて凄味があった。それは、演者や小道具などの考えさせる要素が少ない分、演者1人1人の言葉のみで劇が進んでいたからだと思う。要素の多さや情報量、出来事の奇怪さで勝負するのではなく、単純な文章力だけで勝負をする小説のような。「分からん過ぎるな」という感想を抱きながらも、よりシンプルな狂気を感じた。

 

ただそれにしても「分からん過ぎる」ことが多かった。「光の輪」は何を表しているのか?3人の会話パートはどういう意味が込められているのか?「かもめ」とは何かの暗喩?「迫る」という言葉も共通項な気がする。

 

考えれば考えるほど、分からなくなる。相変わらず、分からん過ぎる。

 

 

【終わった後で】

 

全公演が終わった後で各劇団の戯曲家が登壇するアフタートークがあった。そこで「いいへんじ」の代表の中島さんが「3団体とも「言葉」に関してそれぞれの角度から、真正面にぶつかった劇」だと仰っていた。それが強く印象に残っている。

 

表題にも込められている「おばけ」という単語。コロナで失われた何気ない雑談や、会えなくなった関係性を表しているのか。コロナで無くなった様々なものへの未練を表出しているのか。様々なモチーフが施された邦画を観た後に、後ろ髪を引っ張られながら、なんとなくその映画のことをずっと考えてしまうような感覚をずっと抱いている。

 

久しぶりに、演劇を観覧出来て楽しかった。そしてありがたいことに、今回の演劇について劇評を書かせてもらうことになっている。人の為に文章を書くのは久しぶりなので、一生懸命書きたい。(3,399文字)