11月13日、今いる現実を思い知らされた中野サンプラザ、yonige。
yonigeのライブに行ってきた。
【20:23】
20:23。左手のチープカシオに映った現在時刻を見る。昔、少しだけ好きだったあの子も同じ時計を持っていたことを思い出す。
yonigeのライブが始まって、終わった。19時過ぎにステージに立った彼女たち。ギターボーカルの牛丸ありさが「yonigeです。よろしくお願いします」とだけ喋り、初めの曲「11月24日」のイントロが鳴る。
そこから最後の「ピオニー」に至るまで、牛丸ありさは一切MCを挟まなかった。言葉を発さなかった。いや、違うか。正確に言えば、音楽の中に込められている、歌詞以外の言葉を発さなかった。衝撃だった。
彼女が発した歌詞以外の言葉は必要最低限のもので、「yonigeです。よろしくお願いします」「ありがとうございました」「アンコールありがとうございます。2曲だけやって帰ります」「ありがとうございました」の4つだけ。
開演、ぶっ通して18曲演奏、捌ける、再入場、2曲のアンコール、終演。
5月に出した新しいアルバムのことも、今回の物販の紹介も、次の日から始まるポップアップストアの宣伝も、無し。アンコールが終わった後「以上を持ちまして、本日の公演を終了いたします」のアナウンスが流れる。一緒に行った友達も、周りいたファンの人も困惑していた。
「私たち、ロックバンドなんで」と尖っているのか、一曲でも多く歌いたかったためにMCを削っているのか、分からなかった。
ただ、yonigeの発していた音楽が鋭かったのは確かだ。ステージ上から発せられたた20曲分の先鋭な音楽が、僕の胸を貫いた。
【yonigeを聴く理由】
中学生の時に好きだったアーティストの曲を今聴いてみると、恥ずかしくて聴けないことがある。当時流行っていたファンモンやGreeeN、ソナーポケットがそうだ。余談だけど、ソナーポケットをGoogleで調べたら「ソナーポケットとジャングルポケットの違いは?」というページが出てきて笑った。全然違うやろ。
話が逸れた。兎に角、昔聴いてた曲は恥ずかしくて聴けないという話だ。当時の彼女との思い出の曲を聴きながら「こんな純粋な想いで彼女のことを好きだった昔の自分凄いな」と思う。なんて真っ直ぐなんだ、と。
同じように、ヒゲダンの「115万キロのフィルム」とか純粋にその人のことを想ってるような曲を聴くと、今の自分には到底抱けなさそうな想いに辟易通り越して感心してしまう。先に何があるか分からないのに、115万キロのフィルム撮ろうぜって言えちゃう人は、自分が自分のことを裏切ることや、他人が自分のことを裏切ることを知らないんだろうか。これは僕が歌詞に意味を持たせ過ぎかもしれないな。
でも、ヒゲダンに限らず、ナオトインティライミとかファンモンみたいな「歌詞に共感できないから聴けないな」「何か自分とは違う真っ直ぐでいいいやつだから好きになれないな」と思った人は割と沢山いると思う。
で、僕はそういうアーティストよりも捻くれてる方が好きなのでクリープハイプとかマイヘアとかを聴いてしまう。yonigeもそう。「愛していた 恋していた 無理していた」とたった3行で恋愛の全部を表すyonigeが好きだった。「君の1番になれないけど、君もわたしの1番じゃないよ」みたいな退廃的で共依存の沼にハマったセフレの歌を歌うyonigeが好きだった。自分が経験したことのない人生が詰まってる歌詞を聴いて、それにできるだけ近しい共通項を当てはめて浸れるyonigeが好きだった。
yonigeが好きだった。のだ。
【「そこにいても何も変わらないよ」】
「yonigeが好きだった」と過去形になっているのはわざとだ。この前のyonigeのライブを見て以降「好きだな~」という想いよりも「なんてことを言うんだ……」という気持ちの方が強くなってしまった。衝撃だった。ステージ上の彼女たちに、完全に打ちのめされてしまった。
この感覚は何かに似ていると考えて、朝井リョウが書いたどうしようもない現実がただ続くだけの、何も救いようがない小説を読んだ時のことを思い出した。
yonige、現実を抉ってきた。それも音に乗せて全力で。
先に述べた通り、僕は非日常な恋愛の曲を聴いて、それに浸るのが凄く好きだ。悦に浸っていると言っても良い。
そして今の僕は、そこに浸れる要素があまりにも多い。
2ヶ月間に恋人と別れた。好きになってはいけないな、と思う人がいる。昔ちょっと良いなって思っていた女の子から夜中に急に電話が掛かってきた。あんなに良いなと思っていた人に全く連絡を取らなくなった。
さらに、今の自分は無職だ。働いていない自分は世間から見れば完全に特異な存在であり、一般社会の人の普通な状態とは言い難い。そんな社会に属してない人も肯定してくれるようなyonigeの曲が好きだった。
恋愛的にごちゃごちゃしている状況を考えるのも、働かずにプラプラしている状態でいるのも、楽しい。これらは23歳の若者だからこそ許されているものだと思う。だからこそ、できるだけそこにいたいし、そこに浸っている自分を楽しんでいたい。
と思っていた。のに。
どこにもいないよ、過去は記憶の中で光って
空白を埋めるように 読まない本を買って眠る(11月24日)
やりたいことじゃない、やれることはある
夢は叶わない、日々は巡って行く(健全な朝)
ステージ上で歌う彼女たちを見て、何で現実の話してるんだろう?と思った。いや、勿論恋愛の曲も歌っていた。でも胸に刺さって抜けなかったのは日常を歌った曲だった。ダメな自分を肯定してくれる曲やどうしようもない恋愛の曲よりも、流れ続ける日常を歌った曲が刺さってしまった。
そして彼女たちが歌っていた日常は、俺が憧れていたものでも、浸ろうとしているものでも、しがみついているものでもなかった。ただの、なんてことのない日常だった。
「11月24日」という曲は、かつて牛丸ありさが書いていたブログの文面をそのまま歌にしたようなものだ(そのブログを確認しようとしたらサービスが終了してしまっていた)。以前読んだことがあるが、なんてことのないただの日記だった。それを曲にするということはyonigeの信念のようなものだと思う。過ぎ去った非日常や二度と起こり得ない恋愛を歌うのではなく、これからはただの日常を曲にするんだろう。
以下のインタビューで牛丸ありさは「「何もない」ことをどうやって書くか」ということに触れている。
また同じインタビュー内で恋愛の曲を書かなくなった理由を「悦に入っている感じがして恥ずかしい」と話している。
悦に入る【えつにはいる】
物事が思う通りにいって、心中で大いに喜ぶ(広辞苑より引用)
似たような言葉で「悦に浸る」とというのもある。意味は「自己満足をして楽しむ」だ。
「いったいいつまで悦に浸っているつもり?そこにいても、何も変わらないよ」
ステージ上の彼女たちから、そう言われた気がした。
【「だって、全部どうでもよくなるんだから」】
悦に浸っているのは 、心地良い。何でも自分の想い通りになる、自己満足の世界だからだ。絶対に実現しない夢を見た時や授業中に関係ない妄想をする時に近い。別れた恋人のことで悩んでも、好きかもしれない人のことで悩んでも、ちょっと良いなと思っていた女の子のことで悩んでいても、心地が良い。
でも、全部意味は無い。悩んだってなにも解決しないことは自分が一番良く分かっている。
そして、全部どうでもよくなるなんてことも、良く分かっている。
だんだんなんでも慣れていく僕たちのかんたんな孤独
(どうでもよくなる)
「どうせここでごちゃごちゃ考えたって、最近別れた恋人のことや好きな人のことで考えたって、結局はどうにもならない。その悲しみもその自己満足も結局慣れる」
「全部、どうでもよくなるんだよ」
今の自分を楽しんでいても、悦に浸っていても、僕らはそれに慣れてしまって、いずれは全部どうでも良くなってしまう。
そして、どうでもよくなった後には何があるのか?
同じような、どうしようもない毎日が、ただ続いていくだけだ。
ナイトスクープに依頼したいことが思いつかないし
明日を生きること、忘れたくなって
体に悪いこと、繰り返している(ピオニー)
アボカドを投げつけられるほど人に好かれる自信も無いし、無くなっても替えがあるビニール傘みたいな恋愛もできなさそう。歌詞にできるような劇的な何かが起こるわけじゃない。人生は変わらないし、毎日はこのまま。こんなどうしようもない日常がダラダラ続くだけ。
「やりたいこと」に拘っている場合じゃない。「やれること」をやれ。
夢は叶わない。そして、ただただ日々は巡って行く。
その現実を突きつけられた、だから辛かった。
さらに辛いのは、そんなどうしようもない現実がただ続くだけの自分に何の価値も無いと思ってしまっていることだ。僕には彼女たちのようにダラダラとした日常を音楽に昇華できないし、それで金を稼いで生活できるわけでもない。
ただ、毎日がひたすら続く絶望感。何も起きないんだろうけど、それが何となく寂しいこと。どうしようもない感覚。これをちゃんと整理したくて、誰かに伝えたくて、久しぶりに文章を書いた。
何年後に読み返して、こんなことを考えていた時期もあったんだなあ俺は、とそれはそれで悦に浸っていたい。
11月13日、今いる現実を思い知らされた中野サンプラザ、yonige。