2月24日、自分の状態を知る必要が無い、かもしれないという話

昨日観た映画のことについて考えていたら1日が終わってました。

 

 

 

【映画のこと】

エモかったな~と一言で終わらせられない。劇場や勝手にふるえてろを観た後とも違くて、創作感が無く、作品としてではなくドキュメンタリーのような要素が上記の2つより多かったからだと思う。ゼルダとかパズドラとか。劇場とか勝手にふるえてろの方が感動するし泣けるけど、それよりもかなり距離が近い。万引き家族や何者を観た後と似ている。

 

この映画を観終わった時に別れた僕たちのことを考えては見ても、それは全部終わってしまった話で、もっといえば人に話すようなものでもないので、なーんか明け方とかyonigeとかの時のような文章は書けないな、と思ってしまっている。承認欲求を満たすような、いわゆるエモい文章を書けそうな気はするけれど、そのためには彼女を要素として消費しないといけなくて、それはなんか違う。

それにあの映画を観た後ではどんだけ上手に言葉を選んでも、話の内容が過去の恋愛話であったのなら、「はいはい花恋みたいな恋をしてたのね」と、ありふれたYoutubeのコメント欄のようになってしまいそうだ。恋愛映画を観て自分語りをする23歳は、キツゥイ。あ、でも、元彼女に対する手紙のようなものとしてなら、届けられる気がするな。

 

だから今回書くnoteはそういう恋愛観をむき出しにしたものでは無くて、花恋をみて純粋に恋をしたくなったという話で書ければいいと思っています。人と作品の距離が近ければ近いほど良い、という風潮はhiphopでもお笑いでも文章でも一緒なのだ。知らんけど。

 

【自分の状態を知る必要はない、という話】

一緒に見に行った友達と、どういう流れか分からないけど、自分の状態を常に把握しておきたい、みたいな話になった。それはどうして?と聞かれて小説を書いているから、と半分本当半分イキりみたいな回答をしてしまった。一晩経って、それはどうしてかと考えても、うまく答えが出てこない。自分の状態を把握しているのって人間としてデフォルトじゃないんですか?自分なんてものは周りの影響によって形成された、無なのだ。という考え方はどうしてもできないわけで、なんか単純に自己意識が高いだけな気がしてきたな。

 

あと訳の分からん居酒屋に連れて行ってしまい、上手く話せなかったのは申し訳なかった。俺の話を然るべきタイミングで自然に笑ってくれる彼女は、場を繋げようと下手に口から色んなものが出てしまう僕に比べて、何て大人なんだろうって思った。