自分が理解できないコンテンツへの接し方

こんばんは、森林です。

最近雨の日が続きますが、なんか朝と夜だけに降っている気がします。一日中降るのは勿論嫌だけど、出勤時と帰る時にだけ降られるのもそれそれで嫌だな。

 

今日は「『理解できない=嫌い』なのか?」「理解できないコンテンツについての接し方」というテーマで書いていきます。

 

 

 

 

【理解できないコンテンツ】

僕には理解できないコンテンツが沢山ある。以下がそうだ。

 

BL漫画、月収○○円達成!みたいなビジネスアカウント、恋愛バラエティ番組、モニタリング等のドッキリ番組、アイドルのオーディション番組、韓国ドラマ、Youtuber、タピオカの行列……

 

これらのものを街中で見かけたりSNSで発信していたりすると「そういう感じね。」みたいに思ってしまう。同級生がインスタやTwitterで選挙についてアツく語ってるのを見た時と同じ感じ。

 

でも、選挙や政治に関しては、その人の目的が「純粋に選挙について発信すること」なら何とも思わない。軽蔑するのは「選挙のことをアツく語れる俺カッケ―」みたいな場合。そういう薄っぺらさ、浅ましさが見えてしまったら、僕はそういう風に彼らを見てしまうし、好きというよりも嫌いな分類になってしまう。

 

ただ、冒頭に挙げたようなものは「嫌い」ではない。ただ「理解できない」だけだ。

 

 

【「理解できない=嫌い」なのか?】

 

キンコン西野のブログにて、こんな記事があった。

 

ameblo.jp

 

西野はブログ内の『「知らない」と「嫌い」は似ている』というセクションで、以下のように述べている。

 

僕らが何かを嫌う理由を掘り下げていくと、「知らない」に辿り着くことが珍しくありません。

「生理的に無理」「なんかムカつく」といった感情で嫌っていると思いきや、落ち着いて考えてみると、相手のことをよくよく調べもしていないことがほとんどです。
「知らないから嫌い」という理屈ですね。

 

 

「嫌い」という言葉は、もっと論理的であるべきだ。

 

「あの人は怒りの感情を武器にして他人に迷惑をかけている。だから嫌い。」とか「あの番組はずっと不機嫌な顔をして話の腰を折りまくるタレントがMCを務めている。だから嫌い。」みたに説明する必要がある。

 

そうではないのに「知らない」とか「なんとなく気持ち悪いから」というような理由で「嫌い」と言ってしまう人が多い。

これは暗に「私は論理的に説明できない人間です」と自己紹介しているようなものだ。だから、むやみやたらに「嫌い」という言葉を使ってはいけない。

 

他にも「アイツが言っていたからだ」みたいな「発言の責任を他人に押し付ける」のも良くない。「私は自分の発言に責任が持てない、無責任で自分勝手な人間です」と自己紹介している。

 

なので「嫌い」という言葉を選択するのであれば、そのコンテンツについて調べて理解をした上で発言するべきだ。

 

 

【理解しようとする姿勢】

 

話を戻すと、冒頭で挙げたようなコンテンツは、僕にとって「理解できないもの」であって、決して「嫌い」では無い。

しかし、知った上で批判をする必要性を感じないし、そこに時間を割くのも勿体ない。

 

ただ、「なぜそれが好きなのか?」「なぜそれが流行っているのか?」は知りたい。

なので、僕が理解できていないコンテンツを「好き」という人がいた場合、なるべくその人の話を聞いて「好きな理由」を探るようにしている。

 

先日会った高校の友達は、韓国のアイドルオーディション番組にドはまりしていた。

なにが良いのか?と理由を聞いたところ、「顔が良い」「応援できる感が良い」などの回答をいただいた。

 

これは昨日の「相互性」というポイントを上手く突いていると感じた。

 

moriba-to.hatenablog.com

 

僕は、理解できないものを無理に理解する必要は無いが、「知ろうとする姿勢」は必要だと思ってる。

今のところアイドルというコンテンツに興味は無いが、「韓国」「アイドルのオーディション」が好かれている理由を知れて良かった。

 

 

【それでも理解できない場合】

 

それでも、「男同士で乳繰り合うなんて理解できない!無理!」とか「胡散臭いビジネスアカウントは嫌い」だとか、理解できなくて(理解したとしても)「嫌い」「無理」のような感情を抱いてしまう場合もあると思う。

 

そんな時は次の2つの方法を取ってみてほしい。

 

(1)「ムサシ理論」

 

自分にとっての好きが、他人にとっては嫌いな場合がある。勿論逆も然りだ。

ただそこで「なんでこれを理解出来ないんだ!イカれてる!」と糾弾するのではなく、「まあ、あの人にとっては大事なものなんだろうな」と相手の立場になって考えてみよう。これは「嫌われる勇気」における「他人の課題に介入しない理論」だ。

 

アニメポケモンに出てくるロケット団のムサシ。彼女はアニポケのある回でこのようなセリフを発している。

 

 

 

ミミッキュは、ピカチュウの被り物をしていないとダメなポケモンだ。

その被り物が破れてしまったミミッキュに対して、ムサシは「私はそれを理解できないけど、あなたはそれ大事なんでしょ?」と被り物を直してあげる。

 

3年前くらいに見たツイートだが、理解できないものに直面した時に思い出す。僕にとっては「気持ち悪くて理解しがたいもの」であっても、他の誰かにとっては「かけがえのない大切なもの」かもしれないのだ。

 

 

(2)「ノン・ターゲット理論」

 

これも何年か前に見たツイートの内容で「服を見て高いと思ったのなら、あなたはターゲット層じゃない」みたいな内容だった気がする。(元ツイートは発掘できなかった)

 

これも他の何にも言えることで、例えば「スカッとジャパン」がテレビで流れててイライラしてしまっても、「ああこれにイラつくってことは俺はターゲット層じゃないんだな」と心を落ち着かせよう。他にも「行列のできるタピオカ屋さん」とか「髪色がおかしいYoutuber」を見て「理解できない」と思ったのなら、あなたは「ターゲット層」じゃないののだ。

 

ただ、この考え方はターゲットを自分にしたコンテンツにしか興味を示さなくなり、考えが偏ってしまう可能性がある。なので、「理解できない」ものに対する姿勢は保ち続ける必要がる。

 

【まとめ】

まとめです。

 

・「理解できない」=「嫌い」ではない

・「理解」はしなくても、知ろうとする姿勢は大事

・それでも無理な場合

(1)ムサシ理論→「あなたにとっては大事なもの」という理解

(2)ノン・ターゲット理論→「ターゲットは私以外の誰か」という考え方

 

終わりです。明日は「嫌いだったけど好きになってしまったコンテンツ」についてです。(2,761文字)