10月19日

今日は日付が変わってしまったけれど、まあそんなことは関係ないよね。

 

 

 

【今日のこと】

 

今日は朝起きてゴロゴロして、今日が締め切りの企業に応募をして、明日応募をする企業の文章を考えて、16時ごろに家を出た。

 

ニトリで買った照明が想像の500倍良くて、家に帰ってきて電源を付けて「かなり良いじゃん」と口にしてしまった。かなり良い。でもデザインは『お前がやったんだろ!』って尋問の時に使われるあの照明みたいだ。部屋の雰囲気に馴染んでいるので何でもいいか。

 

高校の友達と飲んで、久しぶりにごちゃごちゃ考えてしまったので、1つずつ消化していきたいと思う。

 

【友達のハードル】

「どこからが友達?」というような話は、友達が自然にできていた学生の時には生まれなかった話題だ。友達なんて環境が勝手に作ってくれた。

 

今でも同じ学校だった人と飲みに行ったり、夜中にいきなり「いつ空いてる?」ってLINEしちゃうような友達が何人かいる僕には、あまり縁のない話題だ。

 

でもこれは社会に参加していないからこその余裕で、毎日身を粉何して働き、泥水を啜って大人になっている人からすれば、このまま年を取るのか?友達ができるチャンスなんて無いんじゃないか?と焦ることになるのかもしれない。これらは全部空想です。

 

 

で、僕が思う友達の定義は1つだ。「一緒に大笑いしたか」

 

共通の話題や何かしらのハプニングで一緒に大笑いをすれば、心の距離が近づく。僕は誰とでも友達になれると思っているタイプの人間でもあり、それは同時に誰とでも一緒に大笑いが出来ると思っていることにもなる。

 

でも笑いのツボが合わなかったり、そもそもこちらが友達になろうとしていない場合にはこれらは難しい。イロモネアよろしく、笑いのツボが合わない人や笑おうとしていない人を笑わせるのはプロの芸人でも難しい。ましてやそれが自分だった場合、なおさらだ。

 

だから友達のハードルとか一旦置いといて「一緒に大笑い」できれば、それはもう友達ってことで良いんじゃないかと思う。

 

ちなみに友達のハードル云々の話は、人によって態度を変えるだの、その友達が自分に何をもたらしてくれるのか?という意味で、非常に利己的で八方美人で自己中心的な考え方ともいえる。

 

で、(これは今日の反省点なのだが)どこからが友達だと思っている?という質問に対して僕は「それは俺が決めることでは無い」と答えた。

 

僕は得てして自分の話を多くする。それは「俺はここまで自分の話をオープンにします!なのであなたもオープンにしてくれ!」というアピールでもある。なので僕の話を聞いた人が「こいつめっちゃオープンに話すからワイも話そう」となるのか「こいつ自分のことしか話さんのなんやワレ」となるのかは、マジでその人次第だ。イロモネアを観覧しに来た人がネタを笑いに来ているのか、笑う気なんてさらさらないか、みたいな話だ。

 

その結果としてネタを笑いに来た人としか今まで付き合いを続けていない。だから俺は友達が多い。

 

…という組み立てで話をしたのだが、水をぶちまけた如く静まり返ってしまった。俺の童貞っぽい早口な話し方が良くなかったのと、「だから俺は友達が多い」という文言が「友達が少ない人」に対するマウンティングだと思われたんだろう。

 

反論として「じゃあ他人の話なんてどうでもいいと思ってるってこと?」と言われてしまった。これはそういうことでは無いが、友達かどうかは向こうが決めることという回答に対しては間違えていないように思う。これになんて返答したのかあまり覚えていないが、この言葉が一番心に残っているということは、それだけ今の僕に必要な言葉だったんだろう。

 

【人の話ってどうやって聞いてますか?】

 

「他人の話なんてどうでも良いって思ってるってこと?」

 

これは、確かにその通りかもしれない。俺は俺にポイントが入らない話はどうでも良いし、その人のことを好きではない限りちゃんと聞かない。ていうか普段からつるんでいる友達にこれを言われたということは、普段から「こいつの話どうでも良いな」みたいな態度が滲み出ていたとしか思えないな……。

 

思えば他人の話すことや他人のことに一生懸命になれていたのは中学高校くらいまでで、大学に入ってからは他人の話を熱心に聞く機会はそんなに無かったかもしれない。人に対する情熱というのかな、そういうものが欠乏してしまっている。

 

これは最近色んな人に言われる「もっと他人に興味を持った方が良い」という言葉にも表れている。極論、僕は自分という人間が世界の何よりも好きで、それ以外の人に対する興味はそんなに無い。この考え方はアドラー心理学を読んで加速された感じはする。

 

 

一方で「他人に興味を持て」とか、「他の人の話はどうでもいいって思ってるの?」って言葉を聞くたびに、「じゃああなたは他人の話を熱心に聞いているの?」と考えてしまう。どこからがどうでもよくて、どこからが熱心にかの線引きなんて曖昧だ。

 

それによく言われる「女の話は同意だけしとけばいい」みたいな考え方は、他人に興味を持っているとはいえるのだろうか。俺は人の話を聞くときにその人の人間性を理解したくて聞いているし、その人が抱えている悩みに対して、その人が欲している適切な言葉を供給してあげたいといつも考えている。ていうか、同意だけしとけばいい話なんてハナから聞きたくないし、そんな話は俺にしてほしくない。だったら初めから「これは聞いてほしいだけの話です」と言ってくれた方が良い。

 

何か話が膨らんできたな。人の話ってどうやって聞いてますか?

 

これもあれも全部自分が大好きで、ナンバーワンな人の意見ですね。でもかなり良いことを言っているのでこれはこのままにしておきます。

 

 

余談だけど、アドラーの本に「結婚は誰でもできる」と書いてあって、それを飲み会の場で口にしてしまった。でも、あれは自分の中でも消化しきれていないのに、逆張りとして変なことを口走ってしまった。あれどういう意味なのかな。アドラーの幸せになる勇気を読み直すのと同時に、あの2冊を読んだ人とちゃんと話し合う会を設けたいと思った。

 

【明日のこと】

 

今日会った友達に「森林のnoteを毎日チェックしてるのに全然更新されなくて悲しい」と言われたので、近いうちに更新をしようと思う。劇場について考えたことと、就活を再開してみて気が付いたことでも書こうかな。「就職活動を再開して気が付いた僕のダメなところ3選」とか、かなり良いタイトルじゃないか?

 

あとは折角ライティングの教科書のような文章を購入したのに、全然実生活に活かせていない。週に何度かは読み直し、反芻し、自分のものにしたいと思う。

 

今日は色んな話をしながら普通に働いている皆を見て、こうして大人になってしまうんだな、と少しだけ泣きそうになってしまった。いつまで俺は子どもなんだという焦りもあった。無駄に俺の話をひけらかすのではなく、「まあコロナだしね~難しいよね」くらいに留めておくのが正解だったのかもしれない。

 

それでも俺は俺のことを好きでい続けるだろうし、当分はこのままだと思う。自分のやりたいことのために自分を曲げることは出来る気はするけれど。

 

久しぶりにこんなに文章を打った。明日はきっと良い日になるぞ~(2,962文字)